[著]アントニオ猪木(Antonio Inoki)
本名・猪木寛至。1943年2月20日、横浜市鶴見に生まれる。
14歳のとき、家族とともにブラジルに移住。1960年、力道山にスカウトされて帰国、日本プロレスに入団。1966年東京プロレスを旗揚げ、翌年、日本プロレスに復帰した後、1972年に再び独立し、新日本プロレスを興す。柔道王ウイリエム・ルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリらと「格闘技世界一決定戦」を行い、世界にその名を轟かせる。リングの外では、1989年スポーツ平和党を結成して、参議院議員選挙に出馬。プロレスラーとして初の国会議員となる。2013年、参議院議員。
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はじめに
ROUND 1
北朝鮮で築いてきた仲裁の「きっかけ」
対話を求めるメッセージを、いかに受け止めるか
北朝鮮についての勉強は、師匠・力道山のルーツに触れることだった
38度線で雄叫びをあげた力道山、彼の無念を晴らしたかった
私を通じて、父の面影を感じた力道山の娘、ヨンスクさん
緊迫した状況だからこそ活きる「猪木流」対話術
たとえ危険な匂いがしても、面白いことには乗るべき
力道山から受け継いだ「闘魂」を初めて理解したとき、プロレスラー人生を終えることを決意した
私は、仲裁の「きっかけ」を作っているだけ
「アントニオ猪木」というコネをなぜ使わないのか
ROUND 2
ブラジルでの命をかけた「国際体験」
未開の地でプロレスに出合うまで
乞食になっても、世界一の乞食になれ!
ロマンティストの気風は、すべて祖父から受け継いだ
どんなに内気な少年にも許せないものがある
厳しい祖父が、守ってくれた「プライド」
4キロの鉄の塊が、救ってくれたもの
ブラジル移住は、ほんの小旅行気分だった
今でも忘れない、すえたリンゴとオレンジの味
私が本当の意味で涙を流したのは、祖父の死だった
手の皮が剥けても、どこにも逃げ場などない
過酷なブラジルでの暮らしがもたらしてくれたものは、異常なまでの自然治癒能力
最愛の「恋人」との再会が、私に気づかせてくれた
スーツケースひとつで飛び込んだ、プロレスの世界
ROUND 3
イラクでの「人質全員奪還」
どうやって「平和の祭典」を開催したのか
議員1年生の私に降り掛かった、手荒い洗礼
視察と観光をはき違えた人間の言うことなど、聞く必要はない
中国のリングにいながら、私の心はもう遥か遠くのイラクの地にあった
まずは溜まった膿を全部吐き出させる。それが私の外交である
猪木潰しに躍起になるマスコミ、官僚
微かに見えた希望
人質解放のカギとなった「平和の祭典」、失敗は許されない
ひとりホテルで味わった、一生忘れられない感動
政治家はサラリーマンじゃない!
空爆の中食べた焼きそばは、最高の誕生日プレゼントだった
ROUND 4
ロシア流「酒のデスマッチ」で懐に飛び込む
まず溜まった膿を全部吐き出させるのが交渉の肝
「やめろ」とは、私に一番言ってはいけない言葉である
夢物語と笑われても、乗り越える希望と情熱がある
カネだけじゃない、親身な気持ちは将軍にも届く
男と認め合うためには、酒のデスマッチが必要なのだ
理念を実現するには、私が政治の場に立つことも必要だと感じ始めていた
ROUND 5
キューバ・カストロ議長と続く「交流」
日本人国会議員として初めて訪問する
裸でぶつかれば必ず何かが返ってくる、それが人間である
リング、革命、ともに闘う男
ROUND 6
パキスタンと30年続く、切れない「縁」
なぜ、平和のために足を運び続けるのか
世界一強いと自惚れていた私に、挑戦状を叩き付けたのはパキスタンの英雄だった
リング上で、パキスタン全国民を相手に戦争をしているような錯覚にとらわれた
因縁のあるパキスタンだからこそ、私が行かねば誰が行くのだ
踏み出さなければ、道もない。真の平和もない
過激派だろうが、誰しも心では平和を望んでいるのだ
「アントニオ猪木外交について」 佐藤優(作家・元外務省主任分析官)